2013年7月5日金曜日

大国日本でも経済成長が減速

シンガポールはたしかに、極端なケースである。おなじように急成長している他の東アジア諸国では、人口に占める雇用者の比率、教育水準、投資率のどれをとっても、シンガポールほど大幅に上昇しているわけではない。にもかかわらず、基本的にはおなじ結論になる。効率性が向上していることを裏付ける証拠は意外にも、ほとんどない。キムとローはアジアの四匹の「虎」(韓国、台湾、香港、シンガポール)について、こう結論づけている。「東アジアの新興工業国については、戦後まったく技術の進歩がないという仮説を否定することはできない」。また、ヤングは詩的な表現でこう指摘する。投入の急速な増加を考慮すれば、「虎」の生産性の伸び率は「オリンポスの丘からテッサリア平原に」落ちる。

こうした結論は常識に反するため、経済学者がそれを主張しても、説得するのはきわめてむずかしい。すでに一九八二年には、ハーバードの大学院生のユアンーツァオが、シンガポールに関する博士論文で、効率性の上昇を裏付ける事実がほとんどないことを明らかにしている。しかし、この論文は「信じがたいとして無視された」とヤングは言う。九二年に台北で開かれた学会で、キムとローが論文を発表した際には、一応、聞いてはもらえたが反響はなかった。ところが、九三年の欧州経済学会の大会で、アジア諸国の成長が投入主導型であることをヤングが論証しようとした際には、はじめから疑ってかかられた。

ヤングの最近の論文には、これだけ反証を掲げても常識をくつがえすことができない苛立ちが、はっきりとうかがえる。論文の標題である「数字という暴君」には、こんな暴論を信じる気にはなれないかもしれないが、数字を避けて通ることはできないのだという意味が込められている。論文の冒頭には皮肉を込めて、テレビードラマのフライデー刑事よろしく、「この物語は真実です」といわんばかりのもったいを付けている。「本論文は退屈で冗長であるが、それは筆者の意図するところである。本論文では、東アジアの発展について、歴史家の興味を引くような新解釈をしているわけでもなく、東アジアの経済成長の原動力について、理論経済学者の意欲をそそるような新しい要因を指摘しているわけでもなく、東アジア諸国の巧妙な政府介入について、積極介入論者が喜ぶような新しい根拠を示しているわけでもない。本論文では、東アジアの新興工業国における生産の増加、生産要素の蓄積、生産性の伸びについて、過去のパターンを綿密に分析することに全力を傾けている。

これはもちろん、ポーズにすぎない。論文の結論は、常識の足元を崩すだけの説得力をもっている。今後、アジア諸国が世界経済で、さらには世界政治で大きな位置を占めるよ うになるとする常識に、ヤングは風穴をあけたといえよう。しかし、この論文では、アジアの経済成長について常識をくつがえす解釈をもたらした統計分析は、四匹の「虎」だけを対象にしている。いずれも比較的小さな国であり、「新興工業国」という呼び方が最初に使われた国である。それでは、日本、中国のような大国はどうだろうか。世界経済の命運がアジアにかかっているという常識を信じている人に向かって、東アジア諸国の成長見通しに異議を唱えれば、日本を引き合いに出して反論するに違いない。かっては貧しかった日本が、いまや世界第二位の経済大国である。日本にできたことがな ぜ、他のアジア諸国にできないといえるのか。

この疑問に対しては、二つの答えがある。第一に、アジア諸国の成功の背景には、「アジアーシステム」という共通点があるとする見方が多いが、実際の統計を見ると、そうはいえないことがわかる。一九五〇年代から六〇年代にかけての日本の経済成長と、七〇年代から八〇年代にかけてのシンガポールの経済成長には、共通点はない。東アジアの新興工業国とは異なり、日本は、投入の大幅な増加と同時に、効率性の大幅な伸びによって経済成長をとげたといえよう。新興工業国は経済成長率こそ高いものの、効率性ではアメリ力の水準に近づいているとは言いがたい。しかし、日本は技術水準でアメリカに迫っている。