2013年12月25日水曜日

大学の将来の悲観的予測

伝統型学生が十分に得られなくなれば、大学の空席を埋めるために、これまで未開拓の成人やマイノリティ層を新しい顧客として発掘せざるを得なくなる。そこでこうした非伝統型学生を標的にして、夜間、週末、昼休み、さらには通勤時間の電車内などに授業を開講し、成人の要求や都合に合わせたプログラムに改変する大学が現れるようになった。これらは開講する時間帯によってイヴニングーカレッジ、ランチタイムーカレッジ、ウィークエンドーカレッジなどと呼ばれている。

例えばウィークエンドーカレッジでは隔週ごとに金曜日の夜から土曜日の夜にかけて授業が行なわれ、学生は週末を大学の寄宿舎に泊まったりして学習し、モの結果履修した単位は累積加算される。社会人の場合には生活・就職上の経験が一定の基準で単位として認められるように配慮されている。また通勤列車の車両を借り切って、毎朝の通勤時間に車内でサラリーマン対象の授業を開設している大学もある(日本にも最近JRで通勤電車内の英会話教室が出現した)。

ところでここで是非とも紹介しておきたいことは、高等教育の行方を占うのにあたって、カーネギー審議会がとった未来予測の手法である。すなわち、カーネギー審議会は一九八〇年代初頭から九〇年代半ばにかけてアメリカ高等教育にどのような変化が生ずるかを、明暗の両面にわたって予想している。

まず、暗い予想(悲観的予測)をとるとすれば、次のような事態が生じるだろうとしている。

・青年人口の減少と大卒雇用市場の悪化により学生在籍者数は現状より四〇~五〇パーセントも減少する。

・高等教育への公費財源の入手難とインフレの進行とによって高等教育の学費が高騰し、そのことが学生層の減少にいっそう拍車をかける。

・大学間の学生獲得競争が激化し、誇大宣伝、安売り単位、成績インフレ、手軽で人気のあるソフトな授業科目の増設といったことが盛んになり、それによって高等教育に対する国民の信頼が傷つけられ、政府の規制が強化される。

・大学経営が困難になると大学経営に関わろうとする管理者が少なくなり、その質も低下する。

・買手市場のため大学が学生を選ぶのではなくて学生が大学を選ぶようになり、そうした学生の動向が大学のアカデミックースタソダードや大学の質の低下を招くような方向に働く。学生のカウンター・カルチュアが大学人のハイーカルチュアを圧倒するようになる。

・学生数の減少にともなって政府の大学への介入の度合いが強まる。

・私学は高い授業料で公立に対抗できなくなり、私学セクターが衰え、(私学が政府の援助に頼らざるをえなくなるため)私学の半公立化傾向が進む。

・自己の将来の方向を決める上での高等教育機関の主導権が弱くなる。

・大学内では若手研究者が雇用されず研究者の高齢化によって生産性が落ちるため、研究が不振となる。

・万人が万人の敵となり、官僚化が進み、すべての高等教育機関の活力が低下する。

・大学の管理運営は協調の精神から競争と相互不信の方向に展開される。

・電子革命の発達は従来の大学の授業をますます陳腐化させ、大学は新技術の導入に抵抗し保守化する。

2013年11月7日木曜日

経済成長とナショナリズム運動の拡大

彼らの活動がこれだけ大きな潮流となり、多くの支持を受けている背景には、現代インド社会の抱える苦悩かあるはずである。伝統的な共同体か崩壊し、確固たる自己アイデンティティが持てず、街には物質的欲求をくすぐるさまざまなモノが溢れかえる現代社会で、A君のように、新たに自己存在のあり方を問い、ダルマの回復を希求する宗教復興的な心性か高まっているのは確かである。それか、ヒンドゥー・ナショナリズムという政治的運動に多くの部分で回収され、さまざまな問題を引き起こしている。A君と話した晩、みんなか寝静まっても私は眠れなかった。A君の抱える問題と私自身の問いか重なったからである。

私が大学に入学したのは一九九四年である。翌年、オウム真理教の地下鉄サリン事件か起こった。現代社会のあり方に疑問をもち、自己の存在のあり方を懸命に問う若者だちかあのような凄惨な事件を起こした。一方で、社会学者の宮台真司は、彼らの一世代下の私たちを「まったり世代」と称して賞賛した。生きる意味などを問わず、その時々の楽しさという「強度」を求めて「終わりなき日常」を生きてゆく。それこそが成熟した近代社会の生き方である。そう彼は主張していた。「なるほど」と正直思った。しかし、強烈な違和感も同時におぼえた。「信仰かあるからこそ、終わりなき日常を生きてゆけるのではないのか?」そう思った。

また、同時に保守派による戦後民主主義批判が大きな流れになっていた。その議論に、私は強くひかれた。しかし、彼らが振りかざす「公の精神」という観念に強い疑問を感じた。「結局のところ公と私を二分化する近代主義者なのではないか?」と思った。小林よしのりは、『戦争論』や『ゴーマニズム宣言』などの一連の著作の中で「公」の精神の重要性を強く説いている。そして、一方で「私」の領域では非常にふしだらな行為を行なっていることを激白している。公の領域では立派な日本人を演じる反面、私の領域においては何をやってもよい。これを読んですぐにマックスーウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の最後のくだりを思い出した。ウェーバーは、世俗化し合理性や効率性のみを追求する近代社会か「精神なき専門人」と「心情なき享楽人」という二分的な人間を作り上げてしまったことに、強い警告を発していた。「信仰を失った保守主義者は単なる近代主義者なのではないか?」と強く思った。

私には現代日本の出口が全く見えなかった。私は日本社会か歴史的に蓄積してきた宗教的伝統を見つめなおしたかった。しかし、そのような意識は、ともすると信仰なき近代的保守主義者のイデオロギー的なナショナリズムに回収されてしまう。かといってカルト的な宗教には惹かれない。ポストモダユズムは「脱構築」を目指すばかりで、あるべき価値を語ろうとしない。価値を語ることの権力性ばかりを強調する。うんざりである。私は悶えていた。だからこそA君の話を重く感じた。現代インドの抱える問題と私の問いはつなかっている。地続きである。そんなことを、かすかに月明かりがもれる窓を眺めながら感じた。

悶えるインド、悶える日本、そして悶える私。この日から、私のヒンドゥー・ナショナリストとの本当の意味での格闘か始まった。インドは九〇年代初頭の経済の自由化とともに、急激な経済成長を遂げてきた。外国企業は、一〇億人の大国インドの巨大な市場の潜在性に目をつけ、次々と進出してきた。このような過程で、IT産業の分野では、インドは世界的に重要な拠点となり、現在では多くの有能な技術者を輩出しつづけている。「IT大国・インド」の誕生である。また、そのような経済発展に伴い、都市におけるインド人のライフスタイルも急速に変化してきた。街にはジーンズとTシャツを身に着けた「洗練された」若者達が溢れ、アメリカンスタイルのハンバーガーショップやコーヒーショップを、彼らが埋め尽くしている。世界的なブランドショップも次々とオープンし、どこも概ね盛況である。



2013年8月28日水曜日

補助金がないと維持ができないハコモノ

「橋ができてよくなったかって? たしかに便利にはなかったが、外からやってくる連中にも便利さあ。夏にもなれば、大きなタイヤの車でビーチを荒らしまわっとるさ。そのうえ、酒を飲んではそこら中に缶を捨て、煙草を捨て、今では美しかった島はゴミだらけよ。こんなはずじゃなかったんだが、もう橋ができてしまった以上、今さら来るなとは言えんしなあ」都会に出て行った若者が戻ってきたわけでもないらしい。こんなはずじゃなかったと、オジイは何度も愚痴をこぼした。戦後、離島や過疎地のインフラを都会並みに近づけようとして莫大な予算をつぎ込んできた。そうすれば過疎地や離島の悩みが解消できると考えたのだろう。そのために、社会的コストを無視して税金を投入してきたが、結果的に過疎地はますます過疎化していっただけだった。どうしてだろう。

過疎地の問題を交通の問題としてとらえたところに間違いがあったのだ。橋をつくれば、出て行った人は戻りやすいが、島に住む人も出やすくなる。そして、より便利な都市へと、出て行く。離島苦の問題は交通ではなく、仕事がないことなのだ。これは橋をつくっても解消しない。雇用がなければ出て行くしかないのである。政治も行政もそのことに気づいていながら、公共工事をなくしたくないためにだんまりを決め込んでいる。 橋ができれば観光客も便利だという意見もあるが、冗談ではない。二泊三日の忙しい団体客ならそれもいいだろうが、リピーターはむしろ、小さな孵に乗って渡るほうを選ぶ。彼らが沖縄に憧れるのは、東京と違って時間がゆっくり流れているからである。

島によっては無人島になってもいいと、私は思っている。そんなことを言うと「弱者を切り捨てる気か」と叱られそうだが、国民に負担を強いる社会的コストにも、一定の限界があることを知るべきだ。コストの有用性を考えず、無駄を極限まで進めた日本国の責任は重大だが、何も言わずに浪費してきた沖縄にも責任はあるだろう。うらやましい沖縄の公共事業国の補助負担率が九割、私が〇八年の夏に古宇利島へ行ったときだった。すでに海岸のそばの道路際には、宅地分譲の看板が立っていた。ここも瀬底島と同じように、いまや別荘地として注目されているのだという。

現在、沖縄県が整備した主な離島架橋は一三あり、そのなかには宮古島と来間島を結ぶ二一九〇メートルの日本一長い農道橋「来間大橋」もある。織田裕二が出演したスズキ・ジムニーのCMに使われた橋だ。さらに二〇〇一年には三八〇億円かけた全長三四五〇メートルという巨大な伊良部大橋も完成する。これらの橋の通行料はすべて無料で、伊良部大橋は無料で通行できる橋としては日本一になる。瀬戸内の離島出身の友人は、これらの架橋を見て思わずうなり、「沖縄はうらやましいねえ」と何度も呟いた。そりゃそうだろう。全長三・五キロの橋がいとも簡単にできるなら、瀬戸内海など橋だらけになってしまう。

たしかに沖縄は有人島数四七(沖縄本島とつながる九島を含む)の離島県には違いないが、それにしても数百人規模の離島に、数百億円もの橋をかけるなんて、どう考えても異常だ。なぜ沖縄だけが巨大な公共工事が可能なのか。次の「国庫補助負担率」の比較表を見ていただくとわかるように、公共事業に関して沖縄は別格だからである。橋も同じで、他県の国庫補助負担率は二分の一だが、沖縄では九割が補助される。しかし、公共工事が巨額になればなるほど、ランニングーコストである管理費も巨額になることは言うまでもない。いずれの日か米軍基地がなくなり、国家そのものが地方の事業を補助する余裕を失ったとき、沖縄はみずからこれらの巨大施設を管理することができるのだろうか。

とまあ、深刻に考えても、できてしまった橋はなくなるわけでもなし、せっかく無料の巨大な橋をつくっていただいのだから、存分に楽しませていただくことにする。古宇利島大橋など、シーズンオフにはほとんど車も通らないから、インラインで思いっきり滑れば、海を渡るカモメになった気分を味わえる。それにしても二七〇億円のインラインーコースとは何とも贅沢な。沖縄の各地で豊年祭が行われていた頃、私は久高島から那覇に戻ると、とるものもとらず、やんばるに向かった。最近は時間ができると、目的もなくやんばるに行く。この日、本部の友人が、辺野古にできた「辺野古交流プラザ」を見学に行くというので同行させてもらった。

2013年7月5日金曜日

奇跡といえる点はない

ここ数年、アメリカの生産性の伸びが少なくとも緩やかに上昇していることが、はっきりと確認されるようになっており、この点を考慮すれば、今後、日本の生産性がアメリカに近づくとしても、亀の歩み程度のペースになるといえよう。むしろ、日本が一人当たり所得で永遠にアメリカに追いつけない可能性すらある。要するに、日本経済は一部で考えられているほど、特別の能力を備えているわけでも、例外的な存在でもない。そして、日本と他のアジア諸国の経済発展の間には、一般に思われているほど共通点があるわけではない。

世界経済の命運がアジアにかかっているという常識に異議を唱える場合、中国を引き合いにして反論されたら、日本のケースよりも論駁がむずかしい。中国はいまはまだ貧しいが、膨大な人口を抱えており、生産性が先進国の水準に少しでも近づけば、経済大国になる。さらに、日本と違って中国は近年、急成長をとげている。それでは、今後の見通しはどうだろうか。中国の急成長の要因を分析することは、技術的な問題と考え方の問題からむずかしい。技術的な問題についていえば、中国が急成長していることは事実だが、中国の統計はきわめて信頼性が低い。最近、明らかになったところによれば、外国投資に関する政府統計は実際の六倍の水準にもなっていた。

これは、政府が外国企業に対して実施している税制、規制面の優遇措置を逆手にとり、国内起業家が架空の外国企業を資本提携先としたり、海外のダミー会社を経由させたためである。中国社会が活力に満ちているとはいえ、こうした不正がまかり通っているようでは、他の統計もとても信頼する気にはなれない。考え方の問題についていえば、どの年を基準年にとるべきか、むずかしいところである。市場経済への移行が始まった年(見方によるが一九七八年)を基準年にとれば、中国の経済成長が効率性の大幅な向上と投入の急速な増加によるものであることは、まず疑う余地はない。しかし、毛沢東政権末期の混乱から立ち直った時期に、効率性が大幅に回復したのは、当然のことである。一方、文化大革命以前の年(たとえば六四年)を基準年にとれば、東アジアの新興工業国と似たような結果になる。

つまり、効率性の向上はわずかであり、投入主導型の経済成長ということになる。しかし、これもまた、かたよった見方である。社会主義市場経済に移行してからの効率性の伸びが大きくても、文革期の落ち込みのために、全体とすれば効率性の伸びが小さくなるからだ。そこで、二つの見方の中間をとるのがよいだろう。市場経済化以降の効率性の伸びのうち、一部(全部ではない)は  一回かぎりの回復で、残りが持続可能な傾向である。中国の成長率が少し鈍化するだけでも、地政学的な見通しは大きく変わる。世界銀行の推計によれば、現在、中国の経済規模はアメリカの約四〇パーセントである。アメリカが今後も年率二・五パーセントの成長率を維持するとしよう。中国が同一〇パーセントの成長率を維持することができれば、二〇一〇年には経済規模でアメリカを三分の一上回る。

しかし、中国の成長率が、現実的な見通しである年率七八Iセントにとどまれば、アメリカの八二パーセントになるにすぎない。それでも、世界経済の重心はかなり移動するが、現在、一般に考えられているほど、大幅に移動することはないだろう。東アジアの新興工業国の急成長は、経済政策と地政学についての常識に大きな影響をあたえている。グローバル経済を論じる識者の多く、おそらくほとんどは、東アジア諸国の成功から三つの結論を導いている。第一に、技術の普及が世界規模で進んでおり、欧米諸国は従来の優位を失いつつある。第二に、その結果、世界経済の重心が太平洋西岸のアジア諸国に移動する。第三に、おそらく少数意見であろうが、欧米諸国で受け入れられる以上に市民的自由を制限し計画の要素を取り入れた経済システムの方が優れており、その証拠にアジア諸国が成功している。

日本はアメリカに急速に追いつこうとしていた

日本はたしかに長年にわたって高率の経済成長をとげてきたが、いまでは、その成長神話も過去のものとなっている。最近でも、日本の成長率が他の先進国を上回ることは多いが、その差は以前よりはるかに小幅になり、しかも縮まっている。日本経済や、日本が世界経済で果たす役割について書かれた本は山ほどあるが、奇妙なことに、日本の成長率の減速についてはまったく触れていない。こうした本を読んでいると、一九六〇年代から七〇年代はじめにかけての成長神話の時代に、タイムースリップしたような気がする。たしかに、日本は九一年以来続いている深刻な不況からまもなく抜け出し(これを書いている時点では、景気はまだ底入れしていない)、短期的にはおそらく、力強い回復が見られるだろう。しかし、景気拡大が本格化しても、成長率は二〇年前の常  識的な予測をはるかに下回ることになろう。ここが重要な点である。

二〇年前と現在の日本の成長見通しをくらべてみるといい。一九七三年当時、日本は経済規模、生活水準ともアメリカをはるかに下回っていた。国内総生産(GDP)はアメリカの二七パーセント、一人当たりGDPは同五五パーセントにすぎなかった。しかし、日本の成長ペースを見ると、いずれ状況が一変すると思えた。それまでのI〇年間、日本の実質GDP成長率は年率八・九パーセント、一人当たり実質GDP成長率は同七・七パーセントだった。この間、アメリカも従来の基準から見れば高い成長率をあげているが、実質GDP成長率は三・九パーセント、一人当たり実質GDP成長率は二・七パーセントであり、日本とは比較にならない。二〇年前、たしかに日本はアメリカに急速に追いつこうとしていた。

それどころか、とうした傾向をそのまま将来に当てはめて考えれば、遠からず日米逆転が起こるはずであった。一九六三~七三年の成長率が続けば、日本は八五年には一人当たりGDPで、九八年にはGDPでアメリカを追い抜くはずだった。当時は、上れがまともな見通しだと思われていた。日本がいずれ世界経済の覇者になるという見方が主流であったことを思い起こそうとするなら、当時、話題になっていた本の題名を見るといい(ハーマンーカーンの『超大国日本の挑戦』、エズラーボーゲルの『ジャパンーアズーナンバーワン』などがある)。

しかし、少なくとも現在のところ、当時の予測どおりにはなっていない。日本経済の世界ランキングが上昇を続けていることは事実だが、二〇年前に予測されていた上昇ペースよりはるかに遅い。一九九二年には、日本のGDPはアメリカの四二パーセント、一人当たりGDPは同八三八-セントにとどまっている。これは、七三~九二年の成長率が高度成長期とくらべて、大幅に鈍化しているためである。この間の実質GDP成長率は年率三・七パーセント、一人当たり実質GDP成長率は同三パーセントにすぎない。アメリカも七三年以降、成長が鈍化しているが、これほど大きな落ち込みではない。

一九七三~九二年の成長率を将来に当てはめてみよう。それでもなお、日本はアメリカに追いつき、追い越すことになるが、以前ほど劇的ではない。一人当たりGDPでは二〇〇二年、GDPでは二〇四七年にアメリカを追い越す計算になる。しかし、日本ではこれより控えめな見通しが一般的だ。日本のエコノミストは、現在の日本経済の潜在成長力(不況時に使われなかった供給余力を使い切った後に維持できる成長率)を三パーセントと見ている。しかも、これはアメリカの二倍近い投資率を前提としている。

大国日本でも経済成長が減速

シンガポールはたしかに、極端なケースである。おなじように急成長している他の東アジア諸国では、人口に占める雇用者の比率、教育水準、投資率のどれをとっても、シンガポールほど大幅に上昇しているわけではない。にもかかわらず、基本的にはおなじ結論になる。効率性が向上していることを裏付ける証拠は意外にも、ほとんどない。キムとローはアジアの四匹の「虎」(韓国、台湾、香港、シンガポール)について、こう結論づけている。「東アジアの新興工業国については、戦後まったく技術の進歩がないという仮説を否定することはできない」。また、ヤングは詩的な表現でこう指摘する。投入の急速な増加を考慮すれば、「虎」の生産性の伸び率は「オリンポスの丘からテッサリア平原に」落ちる。

こうした結論は常識に反するため、経済学者がそれを主張しても、説得するのはきわめてむずかしい。すでに一九八二年には、ハーバードの大学院生のユアンーツァオが、シンガポールに関する博士論文で、効率性の上昇を裏付ける事実がほとんどないことを明らかにしている。しかし、この論文は「信じがたいとして無視された」とヤングは言う。九二年に台北で開かれた学会で、キムとローが論文を発表した際には、一応、聞いてはもらえたが反響はなかった。ところが、九三年の欧州経済学会の大会で、アジア諸国の成長が投入主導型であることをヤングが論証しようとした際には、はじめから疑ってかかられた。

ヤングの最近の論文には、これだけ反証を掲げても常識をくつがえすことができない苛立ちが、はっきりとうかがえる。論文の標題である「数字という暴君」には、こんな暴論を信じる気にはなれないかもしれないが、数字を避けて通ることはできないのだという意味が込められている。論文の冒頭には皮肉を込めて、テレビードラマのフライデー刑事よろしく、「この物語は真実です」といわんばかりのもったいを付けている。「本論文は退屈で冗長であるが、それは筆者の意図するところである。本論文では、東アジアの発展について、歴史家の興味を引くような新解釈をしているわけでもなく、東アジアの経済成長の原動力について、理論経済学者の意欲をそそるような新しい要因を指摘しているわけでもなく、東アジア諸国の巧妙な政府介入について、積極介入論者が喜ぶような新しい根拠を示しているわけでもない。本論文では、東アジアの新興工業国における生産の増加、生産要素の蓄積、生産性の伸びについて、過去のパターンを綿密に分析することに全力を傾けている。

これはもちろん、ポーズにすぎない。論文の結論は、常識の足元を崩すだけの説得力をもっている。今後、アジア諸国が世界経済で、さらには世界政治で大きな位置を占めるよ うになるとする常識に、ヤングは風穴をあけたといえよう。しかし、この論文では、アジアの経済成長について常識をくつがえす解釈をもたらした統計分析は、四匹の「虎」だけを対象にしている。いずれも比較的小さな国であり、「新興工業国」という呼び方が最初に使われた国である。それでは、日本、中国のような大国はどうだろうか。世界経済の命運がアジアにかかっているという常識を信じている人に向かって、東アジア諸国の成長見通しに異議を唱えれば、日本を引き合いに出して反論するに違いない。かっては貧しかった日本が、いまや世界第二位の経済大国である。日本にできたことがな ぜ、他のアジア諸国にできないといえるのか。

この疑問に対しては、二つの答えがある。第一に、アジア諸国の成功の背景には、「アジアーシステム」という共通点があるとする見方が多いが、実際の統計を見ると、そうはいえないことがわかる。一九五〇年代から六〇年代にかけての日本の経済成長と、七〇年代から八〇年代にかけてのシンガポールの経済成長には、共通点はない。東アジアの新興工業国とは異なり、日本は、投入の大幅な増加と同時に、効率性の大幅な伸びによって経済成長をとげたといえよう。新興工業国は経済成長率こそ高いものの、効率性ではアメリ力の水準に近づいているとは言いがたい。しかし、日本は技術水準でアメリカに迫っている。

2013年3月30日土曜日

驚異的な世界新記録

翌昭和三十四年に週刊誌を創刊することになり、わが写真部もカメラマンを増員し、ニコンSPブラックと同年発売のニコンFブラックが一台ずつ貸与されることになりました。標準レンズ以外に、SPは28ミリと35ミリ、Fは24ミリ、105ミリ、200ミリの交換レンズも各自の基準スペックとされ、共用の超広角や望遠レンズ、ローライフレックス、リンホフなども揃えられました。

翌三十五年からはSP二台、F二台になり、ハッセルブラッドも数台加わって、一挙に備品カメラが充実しました。自前で買ったSPの月々三千円の返済は相変わらず重い負担になっていましたが、二年近くたったある日、どういう経緯だったか思い出せませんが、突然、返済打ち切りが伝えられ、大いに安堵したものです。その四年後、銀座のカメラ屋でライカM2を手に取ったのが運の尽きでした。M2のファインダーは最初から35ミリの広角用の視野になっています。35ミリレンズは筆者の標準レンズでしたから、どうしても欲しくなってしまったのです。広角レンズを使うとき、ニコンSPはレンジファインダーでピントを合わせてから、左側のファインダーにのぞき変えなくてはなりませんが、ライカM2はピント合わせと構図が一発で決められます。

そこで、ついになけなしの貯金をはたき、会社からも前借をして、当時、神田にあったライカの日本輸入代理店シュミット商会に行き、M2のブラックボディ十二万円也を手に入れました。昭和三十九年、東京オリンピックの年でした。富士写真フイルムの招きで来日したオリンピック聖火をギリシヤで採火した女優のアレカーカッツェリさんを、この年、開通したばかりの東海道新幹線で京都まで同行取材したのがライカM2の初仕事でした。

M2の最大の特長は、ファインダーが35ミリ広角用であることで、35ミリレンズをつけるとピント合わせとフレーミングが同時にでき、被写体に対し、「いつでも来い」という気持ちになったものです。また、ライカピットと呼ばれるトリガー式の巻き上げ装置を使うと速い動きの相手にも対応でき、常用していたズミクロンの35ミリレンズのきれいな画像、特に白黒画像の透明感のある美しい描写は、暗室作業をいっそう楽しくさせてくれました。

オリンピック会場の国立競技場にも何回か取材に通いました。ニコンFのモータードライブはバッテリーがカメラから離れていて使いづらかったのですが、外国のカメラマンたちは同じニコンFにバッテリー一体型のモータードライブをつけて使っていました。国内に先駆け、まず外国で売り出されたと聞いて、大いにうらやましがったものです。オリンピック最終日、マラソンを撮るためニコンFに600ミリをつけ、スタンドから狙っていました。「ランナーが戻ってきます」というアナウンスに固唾を飲んで待っていると、いきなりという感じで、薄需のかかった入場門に褐色の選手の姿が、まるで蜃気楼のように浮かびあかってきました。エチオピアのアベベ選手でした。濃いグリーンのシャツにエンジのパンツ、白い靴。二時間十二分十一秒二の驚異的な世界新記録に、スタンドの歓声はしばらく鳴り止みませんでした。