2016年4月14日木曜日

軍事政権と民主化勢力

その軍事政権とどうっきあえばいいのだろう。欧米諸国は、ビルマ産品を輸入しない、ビルマ政府高官の入国を制限するといった制裁を科している。ILOなど国際機関もビルマ政府代表の国際会議への出席を制限するなどの制裁を科している。民主化への努力が見られない、人権が尊重されていない、強制労働が未だに存在するといった理由からである。一方で、中国やASEAN諸国はビルマ軍事政権とおおむね良好な関係を保っている。もっとも隣国タイについては、両国の国境をまたいで活動を展開する反軍事政権武装勢力や麻薬にかかおる少数民族勢力の動きがからんで、一時的に両国政府間の関係が冷え込むことはあるが。

中国からすると、沿海部に比べて経済発展が遅れている内陸部にとって、雲南省と陸続きのビルマはかっこうの市場である。現実に、地理的に近く、歴史的にも関係の深いビルマの中北部、第二の都市マンダレー以北はいうに及ばず、ビルマ全土に機械から生活用品まで種々さまざまな中国製品があふれている。また、中国は戦略的な見地からインド洋に出るルートを確保するためにも、ビルマ政府と親密な関係を保とうとしているとされる。

ASEAN諸国とビルマとの関係も、二〇〇二年八月、マレーシアのマハティール首相が一〇〇名を超える大型経済代表団を率いてビルマを訪問したことが示すように、やはり経済関係が優先されている。さらに民主化への取り組みを含めた広い意味の人権問題に関して、周辺諸国はビルマにとって心強い援軍である。

2016年3月14日月曜日

国破れても公共事業

新首都像の相次ぐ変化は、考えてみれば当然予想されることだった。建設問題が現実に近づけば近づくほど、東京で起きている現実との矛盾が明白になったからだ。一九八〇年代から二十一世紀の初頭にかけて、霞が関の官庁街では耐震性を強化した建て替え工事が進行中で、各省庁は次々に建つ新合同庁舎に移転している。ざわめつけは首相官邸の建て替えである。「百年先を考えたハイテク官邸」の建設計画が、現在の官邸と西隣りの「日本科学技術センター」の跡地に一九八九年着工、二〇〇〇年完成予定で進行中で、二百五十億円をかけた造成工事などの準備がすでに急ピッチで進んでいる。

だれの目にも明らかになってきたこの矛盾をどうするのか。自民党が一九九六年六月に発表した「橋本行革ビジョン」は、この矛盾をまるごと飲み込み、現在の東京をほぼそのままそっくり残し、新首都も建設するという、ご都合主義そのものの「解決案」だった。

このビジョンは一九九六年以降、最大の政治課題となった行政改革のうち中央省庁の再編成と結びついている。つまり、省庁の数を半減し、その過程で、「政策立案部門」と「制度執行部門」を分離し、「政策立案に携わる部門を中心に(新首都に)移転する」というのだ。行政府とは、まさに執行がおもな仕事であり、官庁の大部分を占める「制度執行部門」が霞が関に残るとすれば、普段の「新首都」は国会、最高裁、それに官庁のごく一部である「政策立案部門」だけのガランとしたものになる。遷都論から始まった新首都建設の目的は、かくて大かた吹っ飛んでしまった。

しかし、橋本龍太郎首相は一九九六年十一月、第二次橋本内閣発足後の初めての記者会見で、「橋本行革ビジョン」を同内閣の最大の課題として実行することを表明し、二〇〇一年をメドに官庁の再編を開始すると発表した。これと連動する形で、平岩外四前経団連会長を委員長とする国会等移転審議会が、一九九六年十二月に新首都の候補地選びを始めた。

三本の新国土軸といい、新首都といい、あらわになったのは、国家の財政を破綻させても突っ走ろうとする土建国家日本の、あくなき公共事業指向という病弊のきわまった姿である。新首都をめぐっては、北海道、山形、宮城、福島、新潟、栃木、茨城、静岡、愛知(ニカ所)、三重、岐阜、滋賀の十二道県十三ヵ所が億単位の予算を計上して誘致を始めたり、その意向をしめしている。これら十二道県のうち栃木、茨城などでは土地の投機的な動きがすでに出始めている。

2016年2月13日土曜日

低成長下の高齢化という重い課題

国民所得に占める社会保障給付費の割合は一八・九%と前年度に比ベー・二%上昇し、過去最高となりました。不況の影響で国民所得の伸びが鈍化していることによります。部門別では年金が約三十八兆四千億円(五・五%増)、医療が約二十五兆四千億円(〇・四%増)、福祉その他が約八兆三千億円(八・〇%増)でした。

医療費の伸びが抑制されているのが特徴的です。年金給付費は社会保障給付費の約五割を占めています。高齢化に伴い、受給者はどんどん増えますので、この割合を減らすことは至難の業です。

わが国の財政赤字がここまで膨らんだのは、公共事業費と社会保障費の増大のためといわれています。この二大予算項目に切り込むことなくして、財政再建の達成は不可能です。政府が社会保障のビジョンづくりを行う一つの理由がここにあります。二〇〇〇年十二月には総理の私的諮問機関「社会保障を考える有識者会議」が報告書を出しました。公的に社会保障は、個人の生活をどこまで保障すべきなのか、公私の役割分担ということが最大の論点となっています。国民負担率の水準とも密接に関連します。

わが国の政治はどうも、長期的なビジョンよりも目先の利害得失によって動いているようです。とくに医療や年金は、関係者の利害が対立することが多く、その場その場の改良で本質的な課題を先送りしてきた傾向があります。

私たちは、「私たちの社会保障」を私たちで築き上げていかなければなりません。それは天から与えられるものではなく、経済成長の果実を公正に分配することで成り立っているからです。今後の改革の道筋については、政府をはじめさまざまなところで議論されています。将来の社会保障の姿については最終章でふれたいと思います。

2016年1月16日土曜日

マレーシアの政治支配スタイル

一九六九年五月一〇日に行われた第三回総選挙においてアライアンスが後退し、野党グループが躍進した。野党を支持したのは、アライアンスが各人種エリート間の利害の妥協の産物であることに不満をつのらせていた、各人種中・下層住民であった。彼らのうち、マレー系は回教党(PMIP)の、華人系は民主行動党(DAP)の支持にまわった。DAP支持の華人勢力の伸長に危機感を抱いたのがUMNOであり、この選挙後にマレー人と華人とのあいだで血で血を洗う大規模な人種暴動が発生した。

この事件を契機に、マレーシアの政治支配のスタイルは、人種融和という調整型のそれから、マレー人政治エリート主導によるUMNOの強化へと進んだ。さらにUMNOを中心に、MCA、MIC、さらに与党に近いいくつかの政党をもまきこんだ「国民戦線」(BN)が形成された。インドネシアの「ゴルカル」に類する「翼賛」組織であり、この国民戦線は以降、現在にいたるマレーシア最大の政治組織となっていった。国民戦線が中核に位置することにより、UMNOの政治的力量がいちだんと強化されていったのはいうまでもない。

人種暴動後二代目の首相となったラザクは、第一代のラーマンの融和型、調整型の政治スタイルを一変させ、「ブミプトラ」政策、すなわちマレー人優先政策を採用した。マレー人の特権、公用語としてのマレー語、スルタンの地位などを「センシティブーイッシューズ」、すなわち「敏感問題」として、これらを公の場で議論することを禁じた。経済面では、「新経済政策」を標榜してマレー人の経済的地位向上を主眼とする、国家介入度のいっそう強い戦略へと転じていった。

こうした経緯の上に、一九八一年七月にマハティールが第四代の首相に就任し、マレーシアの権威主義体制が完成した。マハティールの出自はマレー名望家でもなければ貴族でもなく、平民であった。スルタンの権威にも挑んでその国政上の権威を縮小し、一九九三年にはスルタンの免責条項をさえ憲法から取り除いて、イスラム教の守護者としての権威を奪うという挙にでた。旧支配層の弱体化をねらい、政府・行政部門のいちだんの強化をめざした急進的行動であった。