2016年1月16日土曜日

マレーシアの政治支配スタイル

一九六九年五月一〇日に行われた第三回総選挙においてアライアンスが後退し、野党グループが躍進した。野党を支持したのは、アライアンスが各人種エリート間の利害の妥協の産物であることに不満をつのらせていた、各人種中・下層住民であった。彼らのうち、マレー系は回教党(PMIP)の、華人系は民主行動党(DAP)の支持にまわった。DAP支持の華人勢力の伸長に危機感を抱いたのがUMNOであり、この選挙後にマレー人と華人とのあいだで血で血を洗う大規模な人種暴動が発生した。

この事件を契機に、マレーシアの政治支配のスタイルは、人種融和という調整型のそれから、マレー人政治エリート主導によるUMNOの強化へと進んだ。さらにUMNOを中心に、MCA、MIC、さらに与党に近いいくつかの政党をもまきこんだ「国民戦線」(BN)が形成された。インドネシアの「ゴルカル」に類する「翼賛」組織であり、この国民戦線は以降、現在にいたるマレーシア最大の政治組織となっていった。国民戦線が中核に位置することにより、UMNOの政治的力量がいちだんと強化されていったのはいうまでもない。

人種暴動後二代目の首相となったラザクは、第一代のラーマンの融和型、調整型の政治スタイルを一変させ、「ブミプトラ」政策、すなわちマレー人優先政策を採用した。マレー人の特権、公用語としてのマレー語、スルタンの地位などを「センシティブーイッシューズ」、すなわち「敏感問題」として、これらを公の場で議論することを禁じた。経済面では、「新経済政策」を標榜してマレー人の経済的地位向上を主眼とする、国家介入度のいっそう強い戦略へと転じていった。

こうした経緯の上に、一九八一年七月にマハティールが第四代の首相に就任し、マレーシアの権威主義体制が完成した。マハティールの出自はマレー名望家でもなければ貴族でもなく、平民であった。スルタンの権威にも挑んでその国政上の権威を縮小し、一九九三年にはスルタンの免責条項をさえ憲法から取り除いて、イスラム教の守護者としての権威を奪うという挙にでた。旧支配層の弱体化をねらい、政府・行政部門のいちだんの強化をめざした急進的行動であった。