2014年12月15日月曜日

アメリカでは老成には価値がない

アメリカは、いうまでもなく広告文明の高度に展開した社会だが、アメリカの広告ほど「あたらしさ」を強調する広告はない。洗剤であろうと、電気製品であろうと、とにかくあらゆる商品の広告文は、まず、大きな活宇で組まれたNEWということばではじまる。のれんの「古さ」を訴える広告などはアメリカの広告では、きわめて例外的なのである。

「若さ」「あたらしさ」への価値づけの例は、アメリカの風俗のなかに、いくつもみつけることができる。たとえば、老人の若づくり。服装だの動作だのの面で、アメリカの中年以上の男女は、日本の基準からみると気ちがい沙汰としかみえないような、若々しいふうをしている。肉体年齢は高くても、精神年齢は、若い。すくなくとも若くありたいとアメリカ人は願っている。アメリカでは老成には価値がない。つねに「若い」ことが価値なのである。

「若さ」にせよ「あたらしさ」にせよ、それは相対的なものだ。若ものは、じぶんを若いと思っていても、いつのまにか、じぶんより、さらに若い世代が育ってきていることに気がつく。ひとつひとつの年齢集団は、いわば、年長者の集団にむかって、「より若い」という価値を正面にすえた姿勢でそだってゆく。

多くの社会では、子どもや若ものは、おとなのようになりたい、と思う。しかし、アメリカでは、事態は逆である。おとなや年長者が、子どもや若もののようになりたいのだ。もちろん、アメリカの子どもも、おとなになりたいとは思うだろう。しかし、いま、じぶんが眼前にみているおとなのようになろうとは、これっぱかしも思わない。いまのおとなより、さらに「あたらしい」、別種のおとな像が子どもにとっての目標なのだ。あきらかに、アメリカ社会では、おとなのがわに、子どもにたいする一種のたじろぎがある。たくましく、着実にそだってくるつぎの世代に、おとなは圧倒されるのである。

公園で、親と子がわかれるのは、まさしくアメリカ社会での、このような年齢文化と関係する。親と子が、いっしょにひとつのベンチのまわりでサークルをつくるのは、フランスのように、伝統的価値の共有に確信のある社会、そのことは、それだけフランス文化の停滞性をも意味するのだが、アメリカのように、世代の交替がそのまま価値の変化を意味し、また社会変化を意味するようなところでは、親と子は、べつな社会的グループ、すなわち年齢カーストにぞくすることのほうが賢明なのである。子どもを、親のそばにひきつけておくことは、すくなくとも、子どもにとって幸福なことではない。だから、むしろ、親は、子どもを力づけ、子どもは同年齢の子どもどうしあそぶように仕向けるのだ。