2013年3月30日土曜日

驚異的な世界新記録

翌昭和三十四年に週刊誌を創刊することになり、わが写真部もカメラマンを増員し、ニコンSPブラックと同年発売のニコンFブラックが一台ずつ貸与されることになりました。標準レンズ以外に、SPは28ミリと35ミリ、Fは24ミリ、105ミリ、200ミリの交換レンズも各自の基準スペックとされ、共用の超広角や望遠レンズ、ローライフレックス、リンホフなども揃えられました。

翌三十五年からはSP二台、F二台になり、ハッセルブラッドも数台加わって、一挙に備品カメラが充実しました。自前で買ったSPの月々三千円の返済は相変わらず重い負担になっていましたが、二年近くたったある日、どういう経緯だったか思い出せませんが、突然、返済打ち切りが伝えられ、大いに安堵したものです。その四年後、銀座のカメラ屋でライカM2を手に取ったのが運の尽きでした。M2のファインダーは最初から35ミリの広角用の視野になっています。35ミリレンズは筆者の標準レンズでしたから、どうしても欲しくなってしまったのです。広角レンズを使うとき、ニコンSPはレンジファインダーでピントを合わせてから、左側のファインダーにのぞき変えなくてはなりませんが、ライカM2はピント合わせと構図が一発で決められます。

そこで、ついになけなしの貯金をはたき、会社からも前借をして、当時、神田にあったライカの日本輸入代理店シュミット商会に行き、M2のブラックボディ十二万円也を手に入れました。昭和三十九年、東京オリンピックの年でした。富士写真フイルムの招きで来日したオリンピック聖火をギリシヤで採火した女優のアレカーカッツェリさんを、この年、開通したばかりの東海道新幹線で京都まで同行取材したのがライカM2の初仕事でした。

M2の最大の特長は、ファインダーが35ミリ広角用であることで、35ミリレンズをつけるとピント合わせとフレーミングが同時にでき、被写体に対し、「いつでも来い」という気持ちになったものです。また、ライカピットと呼ばれるトリガー式の巻き上げ装置を使うと速い動きの相手にも対応でき、常用していたズミクロンの35ミリレンズのきれいな画像、特に白黒画像の透明感のある美しい描写は、暗室作業をいっそう楽しくさせてくれました。

オリンピック会場の国立競技場にも何回か取材に通いました。ニコンFのモータードライブはバッテリーがカメラから離れていて使いづらかったのですが、外国のカメラマンたちは同じニコンFにバッテリー一体型のモータードライブをつけて使っていました。国内に先駆け、まず外国で売り出されたと聞いて、大いにうらやましがったものです。オリンピック最終日、マラソンを撮るためニコンFに600ミリをつけ、スタンドから狙っていました。「ランナーが戻ってきます」というアナウンスに固唾を飲んで待っていると、いきなりという感じで、薄需のかかった入場門に褐色の選手の姿が、まるで蜃気楼のように浮かびあかってきました。エチオピアのアベベ選手でした。濃いグリーンのシャツにエンジのパンツ、白い靴。二時間十二分十一秒二の驚異的な世界新記録に、スタンドの歓声はしばらく鳴り止みませんでした。