2012年12月25日火曜日

堕胎間引きと「産めよ殖やせよ」政策

「教え導いてもらわねば、かよわい女の私には、お産などできるはずはない」という思想は、容易に女らしさを指向する女性たちに受け入れられた。この女性像は、その後女性が「産めよ殖やせよ」と、国家のための、お産を迫られる第二次大戦末期まで、お産のあり方だけでなく女性の生き方の細々とした部分にまで浸透していった。

病気や難産ではなく普通の出産に、男性助産専門家(産科医)が大量に進出し始めたのは、敗戦後の一九四八(昭和二三)年、「優生保護法」の公布施行を契機としている。平常のお産における専門家の進出は、この時期までは、産婆だけに限られていた。それは当時誰もが平常産を医療の必要な領域としてではなく、女性の暮らしの一部とみなしていたからである。しかも女性の性器に直結するものであったから、女性同士に任すのが一番自然だと考えられていたのである。

つい近年、一九七二~七三年と一九八二~八三年の二度にわたって、この優生保護法「改正」の動きが起こり、いずれも障害者や女性たちの激しい反対運動によって、ようやく「改正」が阻止されたことは記憶に新しい。この法律の考え方について、少し系統的に述べてみたい。まず現在、女性が妊娠を自覚した時、特別の理由もなく人工妊娠中絶をすることはできない。刑法第二二一条で、「懐胎ノ婦女薬物ヲ用ヒ又ハ其他ノ方法ヲ以テ堕胎シタルトキハー年以下ノ懲役二処ス」と決められているからである。また同じく、産科医や助産婦で、「婦女ノ嘱託ヲ受ケ又ハ其承諾ヲ得テ堕胎セシメタルトキ」(第二一四条)も処罰されることとなっている。

この「堕胎罪」は、日本では一八八〇年、旧刑法においてはじめて制定され、現在に至っているものだが、もちろん「堕胎」という産児制限法は、明治期に入って急に考案されたものではない。むしろ古来より庶民から殿上人にいたるまで、なかば公然と行なわれていた産児制限の慣習であった。とくに江戸期には幕府など支配者層は米穀を財源とし、建て前は農民の重視、現実は苛酷な搾取という政策を行なったから、農民たちの窮乏は目をおおうぽかりであった。そのため農民の間では、生存を守るやむを得ぬ手段として、この方法は非常にしばしば実行されていた。

また、為政者たちも各々建て前的には禁止したが、実際には年貢さえ徴収できれば、他のことを黙認したため、都市部では「中條流」という看板をかかげて公然と堕胎業を営業するものもあり、武士や町人階級の間でも、頻繁に堕胎は行なわれた。仏教もまた一方では、堕胎符という、堕胎をしても、これさえあれば救われるという守り札を庶民に売りさばいて利益をえヽ他方では地獄における受苦図を持ち歩いて^その悪習をいましめ布教の手段とするという有様であった。

したがって江戸後期に至っては、各地で堕胎や間引きの禁止令や慈善的養育援助事業が、篤志家や僧侶たちによって行なわれたりしたが(高橋梵天著「堕胎間引きの研究」第一書房)、堕胎や間引きという慣習は一向に少なくならなかった。さて、このように為政者たちは近代的刑法を整備し、堕胎罪として法的に禁止したが、女性たちは、伝統的に伝えられ継承されてきた動植物薬や技術の知識を持っていたし、そのような行為を行なうことについて、人々の間にそれほどの罪悪感もなかった。